この頃から、使用している麺や焼豚に少し物足りなさを感じていた。
納得する商品を作るためには、自分で作るしかないと小さいながら製造工場を創設。
使用する素材は、産地、ブランドなど様々なものの中から厳選したもののみを使用。山小屋のスープに最適なコシのある麺、ジューシーな焼豚、そして山小屋ラーメンと相性ピッタリの餃子を完成させた。
筑豊ラーメン山小屋の創業者である緒方正年の父母は、中国満州から引き上げ後本場さながらのぎょうざ店を家業としていた。
大変繁盛していたため、家族総出で切り盛りし、もちろん正年も幼少から店を手伝わなければならなかった。
そんな幼少時の辛い経験から、将来は飲食業とは無縁の職に就こうと決心していた正年は、トラック運転手の仕事に就いた。
トラック運転手という仕事柄、大好きなラーメンを全国各地で食べる機会が多かったが、なかなか納得のいくラーメンに出会わない。
ここで、幼少の頃に培われた味に対する職人魂に火がつき、それなら思い切って自分で作ってやろうと、昭和44年(22歳の時)ラーメン店開業を一大決意する。
子供の頃に食べた印象深いラーメンの味をたどりながら、他にはない味を目指して自己流で勉強を始める。と同時に、学校の廃材をかき集めほとんど手作りの店を開店。 しかし、所詮は素人からのスタート。なかなかうまくはいかなかった。
そんなときに救ってくれたのはいつも遊びに来てくれていた常連のお客様だった。ラーメンについて色々な助言をいただき、評判のラーメン店を教えてくれた。
閉店後の深夜から遠方の繁盛店へ足を伸ばし、研究を重ねたこともあった。ある時は、繁盛店の裏のゴミ箱を覗き、食材や調味料を調べてみたりもした。
開店後3年、このようなゴミ箱あさりの研究が続いた。 そうやって少しずつ改良を重ね、現在の山小屋の味が完成。
いつのまにか、ラーメンの本場と言われる久留米や福岡からもお客様が来てくれる様になり、「筑豊ラーメン」は徐々に口コミで広がっていった。
時が経ちお客様も増え順調に営業をしていた頃、スポーツ紙の営業マンが来店し、「小さい枠で構わないので広告を掲載して欲しい」と頼まれる。
丁度その頃、山小屋のFC展開について考えていたので、試しにFC募集広告を載せたところ問合せが殺到。
これがきっかけとなり、平成4年10月FC本部を開設。FC本部開設からすぐに9店舗を開店することとなった。
この頃から、使用している麺や焼豚に少し物足りなさを感じていた。
納得する商品を作るためには、自分で作るしかないと小さいながら製造工場を創設。
使用する素材は、産地、ブランドなど様々なものの中から厳選したもののみを使用。山小屋のスープに最適なコシのある麺、ジューシーな焼豚、そして山小屋ラーメンと相性ピッタリの餃子を完成させた。
FC事業の本格展開、株式公開という大きな目標を掲げ、平成6年5月、ワイエスフード株式会社を設立。
現在では、九州を中心に、中国、四国、関東へ展開しており、全国の皆様に好評をいただいている。
またそれに伴い、500店舗への安定供給が可能となる新工場を新設。
平成17年2月にはジャスダック証券取引所へ上場し、当初の目標を達成することができた。
しかし、これはあくまでも目標の一つを達成しただけで通過点に過ぎない。一杯のラーメンから始まった山小屋は、これからまた新たな目標に向かって挑戦し続けていく。
筑豊ラーメン山小屋の創業者である緒方正年の父母は、中国満州から引き上げ後本場さながらのぎょうざ店を家業としていた。
大変繁盛していたため、家族総出で切り盛りし、もちろん正年も幼少から店を手伝わなければならなかった。
そんな幼少時の辛い経験から、将来は飲食業とは無縁の職に就こうと決心していた正年は、トラック運転手の仕事に就いた。
トラック運転手という仕事柄、大好きなラーメンを全国各地で食べる機会が多かったが、なかなか納得のいくラーメンに出会わない。
ここで、幼少の頃に培われた味に対する職人魂に火がつき、それなら思い切って自分で作ってやろうと、昭和44年(22歳の時)ラーメン店開業を一大決意する。
子供の頃に食べた印象深いラーメンの味をたどりながら、他にはない味を目指して自己流で勉強を始める。と同時に、学校の廃材をかき集めほとんど手作りの店を開店。
しかし、所詮は素人からのスタート。なかなかうまくはいかなかった。
そんなときに救ってくれたのはいつも遊びに来てくれていた常連のお客様だった。ラーメンについて色々な助言をいただき、評判のラーメン店を教えてくれた。
閉店後の深夜から遠方の繁盛店へ足を伸ばし、研究を重ねたこともあった。 ある時は、繁盛店の裏のゴミ箱を覗き、食材や調味料を調べてみたりもした。
開店後3年、このようなゴミ箱あさりの研究が続いた。そうやって少しずつ改良を重ね、現在の山小屋の味が完成。
いつのまにか、ラーメンの本場と言われる久留米や福岡からもお客様が来てくれる様になり、「筑豊ラーメン」は徐々に口コミで広がっていった。
時が経ちお客様も増え順調に営業をしていた頃、スポーツ紙の営業マンが来店し、「小さい枠で構わないので広告を掲載して欲しい」と頼まれる。
丁度その頃、山小屋のFC展開について考えていたので、試しにFC募集広告を載せたところ問合せが殺到。
これがきっかけとなり、平成4年10月FC本部を開設。FC本部開設からすぐに9店舗を開店することとなった。
この頃から、使用している麺や焼豚に少し物足りなさを感じていた。
納得する商品を作るためには、自分で作るしかないと小さいながら製造工場を創設。
使用する素材は、産地、ブランドなど様々なものの中から厳選したもののみを使用。山小屋のスープに最適なコシのある麺、ジューシーな焼豚、そして山小屋ラーメンと相性ピッタリの餃子を完成させた。
FC事業の本格展開、株式公開という大きな目標を掲げ、平成6年5月、ワイエスフード株式会社を設立。
現在では、九州を中心に、中国、四国、関東へ展開しており、全国の皆様に好評をいただいている。
またそれに伴い、500店舗への安定供給が可能となる新工場を新設。
平成17年2月にはジャスダック証券取引所へ上場し、当初の目標を達成することができた。
しかし、これはあくまでも目標の一つを達成しただけで通過点に過ぎない。一杯のラーメンから始まった山小屋は、これからまた新たな目標に向かって挑戦し続けていく。